『なめらかな世界と、その敵』考察──スマホ時代の必読書
*ネタバレを含みます
*取り扱うのは2022年ハヤカワ文庫出版の『なめらかな世界と、その敵』収録作の「なめらかな世界と、その敵」
あらすじ
いくつもの並行世界を行き来する少女たちの一度きりの青春を描いた表題作のほか、脳科学を題材として伊藤計劃『ハーモニー』にトリビュートを捧げる「美亜羽へ贈る拳󠄁銃」、ソ連とアメリカの超高度人工知能がせめぎあう改変歴史ドラマ「シンギュラリティ・ソヴィエト」、未曽有の災害に巻き込まれた新幹線の乗客たちをめぐる書き下ろし「ひかりより速く、ゆるやかに」など、卓抜した筆致と想像力で綴られる全6編。SFへの限りない憧憬が生んだ奇跡の才能、初の傑作集が満を持して登場。
目次
ユートピアの犠牲者にされる読者
この作品最大の魅力は、現実世界の読者を作品世界のユートピアの犠牲者に仕立て上げたことだと考える。
本作は「並行世界を自由に行き来できる」世界でありながら、それができない人を描いている。この作品世界の人間たちは、自分が死にそうになれば自分が死にそうになっていない世界に行く。
誰かが亡くなっても、その人が亡くなっていない世界に行ける。彼らは常にいくつかの世界を歩んでいて、授業を聞きながらアルバイトをこなし、アルバイトをこなしながらゲームをする。
このいかにも魅力的な「なめらかな世界」での「なめらかな」青春を描けば、それだけで面白くなりそうである。しかし、著者はそこに「その敵」である乗覚障害を加えた。
障害を負い並行世界の移動ができなくなった人間にとって、現実は今いる世界だけであり、命は一つ限りである。
これは我々読者の生き方と同じであるはずなのに、「なめらかな世界」の人間に相対化されて悲惨で孤独なものに感じられる。
乗覚障害を負ったマコトは一度きりの人生を失敗しないよう、人との関りを断ち、勉学に集中する。同じ一度きりの人生でも周囲の環境次第でここまで感じ方が変わるのかと驚いた。
犠牲者と居住者の移動
『1984』の考察で行った分類によれば、終盤までの葉月とマコトの関係をユートピアの居住者と犠牲者、結末での関係をユートピアの犠牲者同士とすることができる。
当然これは、犠牲者への移動が能動的か受動的かという点で分けられる。二人の特徴をそれぞれ考えたい。
マコトは事故によって意図せず乗覚障害を負っていた。突然ユートピアの居住者から犠牲者に移動する構図は『虐殺器官』の結末と少し似ている。
しかし、犠牲者が少数であること、犠牲者に対する一方的な優しさという点では『ハーモニー』に近い。
「父さんも、母さんも、周りの友達も──みんな優しくしてくれた」
鈍い月明りを浴びたマコトの横顔には、寂寥の色が浮かんでいた。
「私が、些細な不自由に癇癪を起しても。八つ当たりで心無い言葉をぶつけても。私を怒らないし、嫌わない。みんないつでも、別のわたしに乗り換えることができるからな」(54頁)
この場面では、優しさに溢れた社会に苦しんでいる相手に更なる優しさで対応する『ハーモニー』と同じく、乗覚障害を負って苦しむ相手に健康ゆえの優しさで対応される孤独感が滲み出ている。
葉月は物語終盤まで健康なユートピアの居住者として描かれる。一連の事件を通して、マコトを救うには彼女と同じ土俵に立たないといけないと気づき、自ら乗覚障害を負う。
連続的な日常の破壊
マコトの唯一の理解者として登場するのが、マコトが乗覚障害を負った事件の犯人、一陣修輔である。
一陣は乗覚障害を起こす薬を大量生成して障害をばら撒こうとする、「なめらかな世界」の敵として現れる。
この復讐は『虐殺器官』の結末と非常に近い。後進国での虐殺という犠牲の上に成り立っていたアメリカ社会は、主人公の選択によって虐殺の坩堝に落とされる。
ユートピアの居住者が信じて疑わない連続的な日常の破壊である。このテーマは『第四間氷期』で主題として扱われる。
復讐ではないにせよ、これは『ハーモニー』で高校生だった御冷ミァハがやろうとしたことにも似ている。個々の人間を社会的資源と見做し、健康を疑わない社会にNOを突きつける。
「なめらかな世界」を生きる人々の声は犠牲者に響かない。今いる世界で困難にあっても、それに向き合わず別の世界に向かってしまえる。それに気づいた葉月は、自ら今までの日常を破壊することで、真剣さを証明してみせた。
葉月とマコトが向き合うことを決意した犠牲者の世界は、我々読者の世界と同じである。今生きている日常を連続的なものとは思わずに、一度きりの人生として真剣に生きていきたい。
スマホ社会の常時接続(2025/12/30追記)
このブログを書いていた当初、私は本作によって読者がユートピアの犠牲者に仕立て上げられていると考えたが、実際はまったく逆だったかもしれない。
書店で話題になっていた『スマホ時代の哲学』を読んでようやく、「なめらかな世界」がスマホ社会に酷似していることに気がついた。
スマートフォンと各種SNSによって、私たちはいつどこにいても常に複数の世界とつながっている。しかもその世界は、アプリやアカウントを切り替えるだけで、まったく別の世界の別の住人になることができる。
もとより社会的な生物なので、家と学校で振る舞いが変わることはあっただろうが、スマホはその幅を大きく広げつつ、すべてに同時接続させる。
その結果、私たちは目の前のことに集中しにくくなっている。その是非は置いておくとしても、実感がある人は多いだろう。
アニメを観ながら学校の課題をやり、課題をやりながら複数のSNSを周り、SNSを見ながら友達と電話をして、その合間で家族に返事をする。そのすべてを家で、同時に行っている。
我々は「なめらかな世界」を自由に移動できない「その敵」ではなく、マコトに向き合うことのできない「なめらかな」人間として描かれていたのかもしれない。
「みんないつでも、別の私に乗り換えることができるからな」(P54)
「自分をずっと見ていてくれる誰かはこの世界には存在し得ない」(P55)
マコトが抱えるこのような不安も、SNSに照らしてみれば分かりやすい。SNSではブロックやミュート、アカウント変更によって容易に人間関係を切り替えられる。
「もっと興味を惹かないと捨てられる」とも思ってしまうし、実生活に支障をきたすほどの不安症を患っている人も少なくない。見向きもされないことほど辛いことはないだろう。
並行世界など遠い未来の架空のお話に見えて、私たちは十分「なめらかな世界」に暮らしていて、十分「その敵」になっていた。私たちはユートピアの居住者でも犠牲者でもなく、表裏一体な存在として描かれていた。
もちろん、今すぐすべてのSNSを辞めろということではないだろう。本作は現実に向き合うことだけが大切だと言っている訳ではない。
向き合うための想像力(2025/12/30追記)
他者と生きていくために、人間は想像する必要がある。
あたしはきっとあの時、よそに助けを求めて安全に助かろうとするのではなくて、ロープが解けなくても、一陣に体当たりでもして倒すべきだったんだ。今のマコトや一陣と同じフィールドで立ち向かわなければいけなかったんだ。
マコトは、私を置き去りにして車から逃げ出してもよかったのに、危険を冒してその場に留まった。あたしは、よその柴峰さんを通じてゆうゆうと警察に通報し、自分の身を一度も危険にさらすことなく、その場を切り抜けた。(P51)
葉月は立派に現実の事件に向き合い、自身に取れる最善手を使ってマコトの誘拐を阻止した。しかし、マコトは心を開くことなく、むしろ学校を辞めて葉月から離れようとする。
葉月は離れていくマコトを前にして、その心中を想像する。相手の立場、相手の世界、相手の感情を優先して思考する。
その結果、自分が本当に向き合うべきだったものを見つける。その向き合い方を見つける。想像する時間があるからこそ、向き合える先が広がる。
多様な世界を知らずして、多様な心を想像できるわけがない。本や映画だけでなく、スマホも世界を知る術として使用できる。
スマホによって常に無数の世界とつながった社会のなかで、この本は想像力を絶やさないための必読書だと思っている。
2025/12/31追記
https://realsound.jp/book/2019/11/post-443167.html#goog_rewarded
2019年にReal Soundが行った伴名練へのインタビューで気になる一文があったので引用する。
伴名:確かに「なめらかな世界と、その敵」は現代社会とは関係なく読めるものとして書いた作品です。
伴名練『ホーリーアイアンメイデン』考察──意識が象徴するもの
*ネタバレを含みます
*取り扱うのは2022年ハヤカワ文庫出版の『なめらかな世界と、その敵』収録作の「ホーリーアイアンメイデン」
あらすじ
いくつもの並行世界を行き来する少女たちの一度きりの青春を描いた表題作のほか、脳科学を題材として伊藤計劃『ハーモニー』にトリビュートを捧げる「美亜羽へ贈る拳󠄁銃」、ソ連とアメリカの超高度人工知能がせめぎあう改変歴史ドラマ「シンギュラリティ・ソヴィエト」、未曽有の災害に巻き込まれた新幹線の乗客たちをめぐる書き下ろし「ひかりより速く、ゆるやかに」など、卓抜した筆致と想像力で綴られる全6編。SFへの限りない憧憬が生んだ奇跡の才能、初の傑作集が満を持して登場。
目次
ユートピア文学は不変と安定の対立であり、その象徴として意識が描かれる。
ユートピアの過渡期
本作では、我々の世界に近い戦時下の世界が、『ハーモニー』のようなユートピアに変わっていく過渡期が描かれている。
防空壕で泣いていた子どもたちの懐柔から始まった能力の軍用は、日本国の籠絡から無条件での停戦、世界的なユートピアへと広がっていく。
『1984』の考察では「主人公が居住者か・訪問者か」という分類を提案したが、今作は作中で社会が変化していくタイプで、ともに収録されている『美亜羽へ贈る拳銃』と同じである。
鞠奈の能力を受けた人が目指すのは「争いや理不尽のない世界、全ての人が安穏と幸福のうちに暮らせる世界」であり、『ハーモニー』の結末に近い。
君はまだ、正しくないことができるかい、たとえば憎いとか恨めしいとか思った相手を害することができるかね。(215頁)
この宗像の発言は、自分が利用している鞠奈の能力に自分が取り込まれてしまわないか、という恐れを表したものである。
この感覚は、『ハーモニー』の優しさ溢れる社会に辟易するトァンも持っていたように感じる。自分が社会に取り込まれていないか確認するためにカフェインを摂取する、という側面があったのではないだろうか。
取り残される犠牲者
過渡期の視点
今作と『美亜羽へ贈る拳銃』、『ハーモニー』にはユートピアへの過渡期を描いたという共通点があるが、視点がユートピアから取り残される犠牲者側であるという点でも共通している。
今作は琴枝からの手紙という体で話が進んでいくため、鞠奈の能力を受けた人が増えていく中で一人だけ取り残される恐怖が描かれる。
『美亜羽へ贈る拳銃』ではインプラントによる好意を受けていながら、自分はインプラントの影響を受けることができない。
『ハーモニー』では優しさに溢れた社会で、その押しつけに苦しむ主人公たちがより強い優しさを押しつけられる。
これは『美亜羽へ贈る拳銃』で考察した「インプラントによる意識の不変性」に繋がる。ユートピアの居住者には、物語に必須である主人公の成長・変化という要素が生まれない。
ユートピア特有の連続的で安定した意識では、新たな憎しみも新たな愛しさも生まれない。このような理由から、ユートピアの過渡期を描く小説は取り残される犠牲者視点になるのではないだろうか。
裏を返せば、物語にしようもない不変的な世界こそがユートピアなのかもしれない。
犠牲者としての鞠奈
それとは別に、本作で取り残された犠牲者が鞠奈の方ではないかということも考える必要がある。
けれど私は妹としてとして、姉様が世界を救い、姉様が人々に慕われ敬われて、姉様の全てが赦される世界で、ただ一人姉様の奇跡を浴びぬ弾かれ者として生きることを拒みます。(223頁)
琴枝はこの文章で、鞠奈の能力を受けない自分の孤独を拒んでいる。しかし、鞠奈の能力を受けられないのは鞠奈自身も同じである。だからこそ鞠奈は自身の正当性に悩み、琴枝という境界を残そうとした。
そこで琴枝が死を選んだことで、逆に鞠奈が取り残されることになった。不変性をユートピアの象徴とするならば、琴枝は死によって固定され、外部に委託しない意識を持つ犠牲者は鞠奈一人になった。
ここから鞠奈が取り残されないようにするには、琴枝が願ったように能力の行使を止めるか、琴枝と同じように死を選ぶ必要がある。
変化の象徴としての意識
そこまで考えて、更にまた、いやな考えが頭に浮かんでしまったのです。もしも姉様からの抱擁を受けて真っ当な心根の人間になれたとして、その真っ当さは私自身のものなのでしょうか。(211頁)
琴枝は鞠奈の能力による道徳心を正しいものだと思えない。そのことは鞠奈自身も、鞠奈を利用していた宗像も同じだとうかがえる。
『美亜羽へ贈る拳銃』で考察したように、その葛藤こそが、取り残された犠牲者の自由といえる。それを示すように、能力を受けた宗像の電話には一切の迷いがない。
意識の固定がユートピアの条件だと仮定してみると、これまで考察してきた作品たちにも同じような側面がみられる。
『ガリバー旅行記』のフウイヌムにはかろうじて自我が残っているものの、彼らの意識には嘘も争いもない。ヤフーについての議論は行われるが、彼らへの対応が変化する様子もない。外部との関りもなく、変化をもたらす種となるはずだったガリバーのことも追い出してしまう。
変化の追放は監視社会的な要素でもある。『ユートピア』をディストピアとしてみれば、一切のプライバシーがなく、定められた正しさにそぐわないものは奴隷とされる。
ディストピアを前面に描いた『1984』ではさらに徹底され、拷問と洗脳によって個人を全体の一部に染め上げてしまう。
『わたしを離さないで』のような見て見ぬふりをする社会でも、ヘールシャムが提起したクローンの人権問題は一つのスキャンダルを狙い目に無視された。
『虐殺器官』においても、連続的な日常を脅かす可能性のある後進国を内戦に落とし込むことでアメリカ社会の不変性を守っていた。
『ハーモニー』の社会ではカウンセリングや社会的評価によって、病気や敵意という変化を失くそうとしていた。
『なめらかな世界と、その敵』では乗覚障害を負ったマコトから目を背ける行為がそれにあたり、変化を受け入れた葉月はユートピアを捨てることになる。
ここからユートピア文学の構造として変化と安定の対立を、その象徴として意識を見出すことができる。
伴名練「美亜羽へ贈る拳銃」考察──不安定で、自由な意識
*ネタバレを含みます
*取り扱うのは2022年ハヤカワ文庫出版の『なめらかな世界と、その敵』収録作の「美亜羽へ贈る拳銃」
あらすじ
いくつもの並行世界を行き来する少女たちの一度きりの青春を描いた表題作のほか、脳科学を題材として伊藤計劃『ハーモニー』にトリビュートを捧げる「美亜羽へ贈る拳󠄁銃」、ソ連とアメリカの超高度人工知能がせめぎあう改変歴史ドラマ「シンギュラリティ・ソヴィエト」、未曽有の災害に巻き込まれた新幹線の乗客たちをめぐる書き下ろし「ひかりより速く、ゆるやかに」など、卓抜した筆致と想像力で綴られる全6編。SFへの限りない憧憬が生んだ奇跡の才能、初の傑作集が満を持して登場。
目次
環境に委託された意識
『1984』 の考察で考案したユートピアの分類をもとにすると、この作品では道徳を信じる社会から道徳をインプラントに任せる社会への変化と葛藤が描かれている。
すでに機械に頼っていた社会は、ウェディング・ナイフの登場で決定的に道徳を信じない社会へ変化した。インプラントによる確実な愛を前に、道徳的な、確証のない愛は誰にも信じられない。
インプラントに頼らない愛を信じていた社会からそれを信じない社会への変化は、読者からしてディストピア的に見える。しかし本作では、その見方が一方的なものであることも強調されて描かれる。
北条美亜羽は実継のことを殺したいほどに憎んでいたが、インプラントを打ち込むことで実継のことが大好きな神冴美亜羽に変わった。もとの北条美亜羽を知っている実継は、インプラントによる変化を不健全だとして元通りにすることを提案する。
結果的に、この提案は北条美亜羽に恋していた実継のわがままだと発覚するが、神冴美亜羽はインプラントによる好意が不健全だという主張に強く反発する。
「でも、わたしにとっては」それは、涙で声を詰まらせながら発せられた言葉だった。
「脳とか、科学のこととか、何も分からなくても、あなたのことを好きな、いまのこのわたしだけが、本物の『わたし』です」(147頁)
上記の引用は、実継が神冴美亜羽を北条美亜羽に戻すための拳銃を渡すが、神冴美亜羽に拒否される場面である。インプラントを打たれた本人は全く戻りたいと思っておらず、インプラントによる実継への好意を幸福だと考えている。
本作がトリビュートを捧げる『ハーモニー』や本作とともに収録されている『ホーリーアイアンメイデン』でも、道徳を外部に委託したユートピアの居住者たちは幸せそうに描かれる。
ユートピアの犠牲者
インプラントによる影響を受けない実継はユートピアの犠牲者として描かれ、それは読者と重ねられる。このような構図は『ホーリーアイアンメイデン』の琴枝や『ハーモニー』とも同じである。
ともに収録されている『なめらかな世界と、その敵』でも、並行世界を自由に移動できる「なめらかな世界」の住人と、それができない「その敵」との関りが描かれる。この作品では主人公がユートピアの居住者側なので、本作とは真逆の視点を楽しめる。
二作に共通する、「理想的な選択肢の提示とその剥奪」という構図については、下記の記事で丁寧に記述されているので、ぜひ読んでいただきたい。
外部に感情を委託した社会がディストピアに感じるのは、それができないユートピアの犠牲者側の見方である。本作では犠牲者の視点が読者と同じために、ディストピア的要素が押し出されて見える。
ユートピアとディストピアの一方的な判断という視点は、『第四間氷期』で主題として描かれる。こちらの作品では、犠牲者側から一方的にディストピアだと判断することの身勝手さを批判している。
犠牲者の自由
インプラントに頼った意識は、良くも悪くも安定している。それに対して、インプラントの影響を受けない実継は自由な意思を持っていると書かれる。
これは『虐殺器官』のアメリカと後進国の構図が分かりやすい。この作品では、後進国の内部で紛争を起こすことで、アメリカへのテロを防ぎ平和を守っている。
後進国での虐殺を犠牲に成立するアメリカ社会というユートピアの住人は、連続的な日常で変化のない生活を過ごしている。
同じように、本作でのインプラントは連続的で不変な感情を保証する。これは孤独感や敵意に悩まされないという点でユートピア的であり、定められた位置から動けないという点でディストピア的という二面性を持つ。
感情を定めることができるユートピア社会の中で、それができない実継は犠牲者のようでありながら、だからこそ北条美亜羽に振られて神冴美亜羽を愛することができる。
実継がインプラントによって神冴美亜羽を愛していたなら、神冴美亜羽が実継に隠していたことは全て隠されたまま暮らすことになっていただろう。
本作は、不変で安定した『ハーモニー』の結末に対して、意識を固定できないからこその愛憎劇を通すことで、不安定で自由な意識の尊重という答えを提示しているのではないだろうか。
『ハーモニー』考察──機械化するユートピア
*ネタバレを含みます
あらすじ
21世紀後半、〈大災禍(ザ・メイルストロム)〉と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築きあげていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が横溢する“ユートピア”。そんな社会に倦んだ3人の少女は餓死することを選択した――それから13年。死ねなかった少女・霧慧トァンは、世界を襲う大混乱の陰に、ただひとり死んだはすの少女の影を見る――『虐殺器官』の著者が描く、ユートピアの臨界点。
目次
道具としての意識
本作はトマス・モアが『ユートピア』で描いた社会の極致を書いている。本作の社会は徹底的な道徳心に溢れ、病気も怪我もない優しい世界である。
『ユートピア』では場所の分からない一国として書かれていたが、こちらでは世界全体が一つの生府を構成している。
しかし『ユートピア』で危惧した通り、押し付けられた優しさに息苦しさを感じて自殺する若者が増加している。ユートピアを保つための極端で決めつけられた正しさはカフェインやアルコールについての討論でよく表現されている。
<list:item> <i: 某婦人はカフェインがパニック障害を引き起こすことを指摘した>
<i: 某婦人はカフェインが睡眠障害を引き起こすことも指摘した>
<i: 某婦人はカフェインが痙攣を引き起こすことまでも指摘した>
<i: 某婦人はカフェインが頭痛や健忘などの症状のトリガーになると指摘した>
<i: ストレスの問題はセラピストやカウンセラーの問題であるとも指摘した>
<list:item>(ハヤカワ文庫209頁)
ミァハはそのような優しさを求められる`意思`に自殺の原因を見出し、意思を失くした世界を作り上げようとする。
主人公のトァンも極端な社会に居場所を失くした一人であり、ミァハの計画自体は否定しない。ミァハにとって意識というのは生きていくために作り上げた道具の一つでしかなく、時代遅れの人工物となっていた。
人間は木の枝に始まり、斧や銃、家や村、都市や国家に並び数多の道具を製作してきた。その目的はただ心身の安楽一点のみである。
手が届かなければ長い枝を使う。木が切れなければ斧を使う。動物が殺せなければ銃を使う。できないこと、不便なことを解決し、人間の認知的リソースを減らすために人工物は造られる。
一口に人工物といっても、そのくくりは大きく二つに分けられる。一つ目は物質的な人工物と呼べる。これは人間が活動している諸環境──海や山、雨や風などのすべての自然を変化させることで製作されている。
その中でも、人間側に寄ったものである道具、自然側に寄ったものである建築物の二つが大きな区分けになるだろう。
二種類の物質的な人工物を組み合わせることで、人間は環境を認知的リソースを割かずに移動できる。
人間側に寄った人工物である靴と自然側に寄った人工物である道がなければ、日々の移動さえままならないだろう。
<大災禍>と終わらない災害ユートピア
『虐殺器官』考察──ディストピアの訪問者
*ネタバレを含みます
あらすじ
9・11以降の“テロとの戦い”は転機を迎えていた。先進諸国は徹底的な管理体制に移行してテロを一掃したが、後進諸国では内戦や大規模虐殺が急激に増加していた。米軍大尉クラヴィス・シェパードは、その混乱の陰に常に存在が囁かれる謎の男、ジョン・ポールを追ってチェコへと向かう……彼の目的とはいったいなにか? 大量殺戮を引き起こす“虐殺の器官”とは? 現代の罪と罰を描破する、ゼロ年代最高のフィクション
目次
ディストピアの暗殺者
この作品では『わたしを離さないで』と同じくユートピアの犠牲者の問題を描いている。
相違点として、『わたしを離さないで』は直接犠牲者の生活を描いていたのに対して、『虐殺器官』では主人公が犠牲者を訪問することが挙げられる。
主人公のクラヴィスは、『わたしを離さないで』で施設の存在を見て見ぬふりしていた社会と同じようなアメリカ社会で暮らしている。この社会ではテロを防ぐために徹底した監視社会が敷かれている。
しかし『1984』とは違って、その効果は全く表れていない。後進国によるテロは自爆を前提としており、監視や罰則に屈しないのである。
ジョン・ポールはアメリカをテロから守るために後進国で暴動・虐殺を起こす。アメリカ国民は紛争を自分と関係のない遠い国の出来事と考え、普遍的で連続的な日常を信じている。これは『第四間氷期』で勝見が信じているものと同じである。
クラヴィスはこれまでアメリカ上層部の命令という言い訳で、紛争地域の用人を幾度となく暗殺してきた。
一連の事件の結果、それが後進国を犠牲にアメリカを守るジョン・ポールのやり方と変わらないことに気づく。
その罪を償うために自分の意志でアメリカ社会に虐殺の舞台を移し、母の殺人というトラウマを克服するという繋がり方が綺麗である。
贖罪のために更なる罪を背負うというのはジョン・ポールと同じでありながら、「みんな、知る必要がある」というルツィアの言葉に沿ったものでもある。
クラヴィスはアメリカ社会というユートピアの居住者でありながら、紛争地帯というディストピアに出向く訪問者でもあった。
そのうえで自らのユートピアを壊した彼と対照的に書かれるのが、彼の相棒であったウィリアムズである。
彼は妻子のためにジョン・ポールとルツィアを殺害して、見て見ぬふりする平穏な社会を持続させようとする。
これはまさしく水棲人間の被験者となった息子を殺そうとする勝見であり、ヘールシャムの外の人間である。
ディストピア訪問者型の特徴
ユートピアの居住者がディストピアを訪問する作品として、石黒達昌の『或る一日』も挙げられる。これは安全な国で医者として働いていた主人公が、原発関連らしき事故の起きた現場に訪問して働く作品である。
現地の医者も被害に遭っており、食料や医療機器は汚染されている。その中で主人公だけは、国から支給された清潔で安全な物資で生活している。これは高機能な装備で後進国の少年兵を圧倒しているクラヴィスと同じである。
『虐殺機関』のクラヴィス、『或る一日』の「私」をディストピアの訪問者として見てみると、『1984』の考察で懸念していた「ディストピア社会は、自らのディストピア的要素を監視社会によって隠すため、ディストピアを訪問する場合監視社会的要素のないディストピアになる」という問題が表れている。
『わたしを離さないで』のマダムもディストピアの訪問者といえる。ヘールシャムには『1984』ほどではないにしろ監視社会的要素があるが、上記2作の主人公と同じく仕事で訪問している人物であり、ディストピア的要素を隠す必要がない。
虐殺の文法で描かれる言葉による思考の支配は、『1984』のニュースピーク、長谷敏史『地には豊穣』、黒石迩守『くすんだ言語』などでも繰り返し扱われる問題である。これについては、言語と思考という観点で本作を読み直した後に考えたい。
『わたしを離さないで』考察──見て見ぬふりの社会
*ネタバレを含みます
あらすじ
優秀な介護人キャシー・Hは「提供者」と呼ばれる人々の世話をしている。生まれ育った施設へールシャムの親友トミーやルースも「提供者」だった。キャシーは施設での奇妙な日々に思いをめぐらす。図画工作に力を入れた授業、毎週の健康診断、保護官と呼ばれる教師たちのぎこちない態度……。彼女の回想はヘールシャムの残酷な真実を明かしていく。
目次
ディストピア文学として
この作品はディストピア文学と青春小説に分類されることが一般的である。それぞれの面での特徴を考えたい。
ディストピア文学としては、ユートピアの犠牲者を描いていることが最大の特徴といえるだろう。
医療の発達した英国社会で臓器提供を目的に作られたクローン人間を育てる施設ヘールシャムでの思い出を、キャシーの一人称視点で振り返っている。
施設を卒業してから時間が経ちながらも、まだ提供者になっていないという特殊な立場は、黄金時代と人生の終末の狭間であり、ユートピアとディストピアの中間だと考えられる。
作品世界が具体的に描かれないためキャシーの語りからの推測にならざるを得ないが、『1984』の考察で示した分類に従うと「信じない・居住者」になるだろう。
しかし、本作はこれまでのユートピア文学に見られるような極端な社会と比べて、私たちの社会に近しい。完全に「信じない」というよりも「見て見ぬふりをする」というのが正確だろう。
ヘールシャムで行われた展示会はまさしく、「見て見ぬふり」をされて消えかけている道徳に訴えかけるための行事であった。
キャシーは提供者となって死にゆく恐怖を和らげるために、ヘールシャム時代の思い出を理想化する。ヘールシャム時代と提供者の隙間に時間軸を置いたからこそ、読者の共感を誘えたのではないだろうか。
青春小説として
青春小説としての特徴はヘールシャムという施設の社会性にあると考える。一人の時間がほとんどなく常に社会性を要求されるヘールシャムでは、社会学者のゴフマンが『日常生活における自己呈示』をもとに提唱したドラマツルギーが強調されるだろう。
日常の相互行為はすべて演劇的である、というこの考え方を特に示しているのがルースである。例として、六章での筆入れ・カセットテープに関するキャシーとルースのやりとりが挙げられる。
ルースは日頃からジュラルディン先生に特別扱いされているという印象を周囲に与えておくことで、自分の優美な筆入れが先生からの贈り物であると仄めかす。
ここでルースは「非意図的に放出する表出」が上手い人物として描かれる。キャシーはこのような仄めかしに苛立つが、明言されないため何も言えない。
プレゼントが嘘だと見抜いたキャシーは意趣返しとしてそれを暴くが、ルースは酷く落ち込んでしまいキャシーは後悔する。これは「パフォーマンスの攪乱」とそれが引き起こすパーソナリティの帰結にあたる。
その後の仲直りの過程は「自由に開示できる秘密」から「委託された秘密」への変化、「保護の実践」にあたり、二人が秘密を共有したチームに変化している。
このように本作では社会の多様な相互行為、そこでのトラブルが現実的に描かれており、感情移入しやすい作品となっている。
『第四間氷期』考察──自己中心的な傍観者
*ネタバレを含みます
あらすじ
現在にとって未来とは何か? 文明の行きつく先にあらわれる未来は天国か地獄か? 万能の電子頭脳に平凡な中年男の未来を予言させようとしたことに端を発して事態は急転直下、つぎつぎと意外な方向へ展開してゆき、やがて機械は人類の苛酷な未来を語りだすのであった……。薔薇色の未来を盲信して現在に安住しているものを痛烈に告発し、衝撃へと投げやる異色のSF長編。
目次
ディストピアの環境問題
この作品は一見ディストピア的な未来像を提示するものに見える。しかし実際のテーマは、人間の自己中心的な考え方への批判にあると考えた。
まずはこの作品のディストピア的な要素について考える。一つ目に挙げられるのは氷河の融解による海面上昇だろう。これは超大規模なもので、一部の高山以外すべてを飲みつくしてしまう。
これに付随して、遺伝子操作による水棲人間の誕生がある。水棲人間を作り出すための実験は国家的に秘密裡で行われ、中絶される予定だった子どもを買って被験体にしている。
ここに人間の遺伝子を改造するという倫理的な問題と、国家による人身売買という問題がある。
ディストピアの監視社会
つぎに、プライバシーのない監視社会のような側面が見られる。勝見の作った予言機は他人の未来予測、人格の模倣、死者の記憶の再現までできてしまう。
勝見自身が殺されることになったのも勝見の未来を予測した結果が原因で、
「勝見はこのようなディストピア的な未来には耐えられず、水棲人間の被験体となった息子を殺し、実験を世間に暴露して予言された未来を踏みにじる」
と予言された勝見は、第二次予言値である自分(「勝見が水棲人間の実験を知った場合の勝見の行動」を知っている勝見)の方策によって殺される。
人間の身勝手さ
ここまで示したように、本作にはディストピア的な要素が多く見られる。そして、すべての要素に人間の身勝手さが描かれている。
氷河の融解は温暖化を示唆しており、自然より産業発展を優先した人間の身勝手さが問題になる。遺伝子の改造は言うまでもなく被験者の人権を侵害する行為である。
また、勝見が予言によって殺されることも、作中では因果応報として描かれる。
このことは勝見の第二次予言値の「睡っていた未来の目をさませてやったのは、君自身じゃないか?」という発言に集約されている。
勝見が予言機を作ったことによって、予言された未来を知る勝見の第二次予言値が自殺(勝見を殺害すること)を決意したのである。
自分が生み出したものによって被害を受けるという構図は、水棲人間を生み出した現人類が水棲人間に飼われるという予言で変奏される。
一方的なディストピア
『ユートピア』と『ガリバー旅行記』の考察で中心となった「ユートピアとディストピアは表裏一体で、判断は恣意的で便宜的なものになる」という考え方だが、阿部公房はさらに進めた考えを持っていたと思われる。
本作のあとがきでは、
はたして現在に、みらいの価値を判断する資格があるかどうか、すこぶる疑問だったからである。何らかの未来を、否定する資格がないばかりか、肯定する資格もないと思ったからである。(新潮文庫330頁)
それは、ユートピアでもなければ、地獄でもなく、またどんな好奇心の対象にもなりえない。(331頁)
と書かれている。これは「判断は現在の価値によるので恣意的」というだけでなく、「現在の価値による恣意的な判断は無価値で愚かしい」という視点まで至っている。
この視点から考え直すと、水棲人間に支配される未来をディストピアだと決めつけて抵抗しようとする勝見は、今の価値観に支配されず未来を受け入れる頼木たちに相対化されて、ひどく身勝手に描かれていることが分かる。
ここから本作は勝見を通して、「自己中心的な常識に依って未知の対象を非難する身勝手さ」を批判していると考えられる。これはユートピア文学批評に対する鋭い批判にもなっている。





